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2008年12月26日

韓国の大学入試

年々エスカレートする韓国の受験戦争。韓国の家庭では年収の3分の1を子供の教育費にあてると言われています。


日本人からするととてつもなく高額な教育費だと感じますが、韓国では大学新卒者の初任給が大学によって最大60%の格差があるのです。さらに、高卒者に比べて専門大、学士、修士、博士の初任給は、それぞれ20%、35%、54%、85%の格差があります。だからどうしても受験が激化していくのです。


しかしながら本当に受験勉強だけをしてきた人が社会にでて優秀なのかという平易な考えが浮かぶのは私だけではないと思います。逆に高卒だとどんなにがんばっても大学院を出た人と比べると3分の1程度しか収入が得られないとすればそれは不幸な事ですね。


現在日本は韓国とは相反して就職の際に学歴偏重がどんどん鈍化してきています。特に第二新卒になればすでに学歴を問われる比率が低くなってきました。このような社会背景の中、更に自分をしっかりと見つめ、生き甲斐を見いだしていく努力をした人にどうやら多くのものが手に入っていくのだと感じます。

2008年12月19日

禅とは単に示すと書く

過去から賢人が伝えたかったものは、その文字を見るとその真意が往々にして見えて来るものです。


前回座禅についてお話をしましたが、この「禅」という言葉を紐解くと「単に示す」と書く事が分かります。禅とはすべてのこの世の中にある複雑な事を、修行や行為を通し分かりやすく一言で示して行く事なのだと理解できます。


我々は日々何かを手に入れたい、何かのために一生懸命働きます。しかし日々の生活の中でその思いは複雑になったり、不鮮明になったりしていきます。そしてそのままただ時間を過ごしていくといつかは、自分は何のために働いているのかという自己疑問がふつふつと湧いてきて生き甲斐や活力が欠落していくものです。


だから人はせめて1年に一度程度は、自己を見つめ自分の働く意義や、手に入れたいものなどを自己確認する必要があるのです。そしてその答えを「単に示す」つまりよりシンプルに一言で自己明示をすることが大切なのだと思います。そうすることで自己を見失う事無く、元気に働いていくことができるのではいでしょうか。

2008年12月12日

坐視て思う

私は色々な迷いが生じると年に数回「座禅」を組みにお寺へ行きます。皆さんは座禅を組まれたことがありますか。よく「座禅でも組みに行くか」なんて悩み事があるときに誰もが口にしますが、なかなか行く機会がないのが現実だと思います。


座禅という行為は、あぐらを組み、背を正し、半眼のまま一定の時間を過ごしていきます。この半眼のままじっとしているという行為は、一定の時間が過ぎた段階で、ある時ふっと自分が寝ているのか起きているのか分からなくなる状況に陥ります。


それまでは色んな雑念が頭を過り、集中して物事が考えられないのですが、このある種の催眠状態になった段階で思考がひとつに絞り込まれて行くような思いにとらわれます。それからしばらくそのまま思索を続け、覚醒した時には何か少しだけ思考がまとまっているのです。


「坐」は、すわるという自動詞です。土の上に人が二人すわっているところを表しています。しかも、この二人は、別々の人でなく、同じ人、さらに言えば、自分の心を分解してふたりにしているのです。だから座禅というものは座ることを通しその二人の意見を一致させる行為なのだと思います。是非一度座禅にいかれてみてはいかがでしょうか。

2008年12月05日

すべては自分

鎌倉時代初期の禅僧道元は座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた人です。簡単に言えば「禅」を通して人の生き方を説いた人と言えます。


その道元禅師は「仏道を習うとは自己を習うなり」という言葉を残しています。これまた別な言葉で表現するなら「己事(おのれのこと)を究めていくことが禅である」と言えるのではないでしょうか。


私は決して宗教観が強い方ではありませんが、この禅の教えにはとても共感するものがあります。


人は雑念を捨て、ある意味の達観をすると最終的には同じ答えに到達するのではないかと思います。その答えとは、結局人生はすべて自分の思い方、考え方で幸不幸を決めて行くものだと言う事ではないでしょうか。またどんな財を成すよりも自己を高め、自己の迷いを無くす事が真の幸福なんだと改めて感じさせられます。


禅の道に座禅という行為があります。自分の本当のキャリアを考える際に、一度この喧噪な世の中から離れ「座禅」を組みに禅寺へ行くのもいいかもしれませんね。